昭和52年12月04日 朝の御理解



 御理解 第50節
 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えて居れば、肥をせいでもひとりでに物ができるようなものぞ。」

 どこに力を入れるか、どこに肥やしをするか、漠然としとっては折角の肥やしが効きません。自分所の畑自分所の田んぼ、五反あるならばその五反の所に肥やしをしなければ、いきなりにどこにでも構わんと言う様に振りまいた所で、いうならば骨折り損のくたびれ儲けと言った事になります。いうならば自分の信心というか。この範囲とそのそこに肥やしをしなければいけない。私が福岡でお商売をさせて頂いてそれこそ置いたものを取るようなおかげを頂いた。
 次に願っても願っても右と願えば左、左と願えば右にと言った様な状態が続いて、いよいよ商売もお手上げだと言う様な時でした。もういよいよ年の暮れも迫って参りましたある日、どういうわけにお商売が、あのように調子よういっておったのが、途端にいけなくなったののだろうかと。もうその事をまあ一心に、お縋りさせて頂いておった。その頃御心眼など頂いておりませんでしたけれども。
 その年の正月の御祈念をさせてもらう時に、一生懸命御祈念をさせて頂いておったら、丁度横からぽっと片一方の足が出る所を頂いた。どう言う事だろうかと。足が出ると言う事は損をすると言う事ですね商売用語で。まああまり気にかけておらんかったけれども、その一年間はいわゆる足が出るような商売で、いよいよ行き詰まった訳です。そして又年の暮れに、御祈念させて頂いておりましたら、あの亀ですね亀さんです。
 その亀さんが荒縄でがんじがらめにくくられておる所を頂いた。ははぁこれはどう言う事だろうかと。これじゃ身動きも出来ないと思うとりましたら、鋭利な刃物でね、そのがんじがらめの綱をぷつぷつぷつっと切られる所を頂いた。ようやく亀がこう四つの足を出してね、立ち上がろうとしたら、また鋭利な刃物でその四つの足を、ぷつぷつぷつっと切られる所を頂いた。
 はぁ亀が荒縄を切られたはぁこれで楽になれるぞと思うておるのも束の間であった、次にはこう立ち上がろうとする四本の足をすぐ突っ切られてしもうた。もういよいよ目もあてられんような修行がその翌年から始まりました。お商売のその少し残っておる商品なんかも売りに歩こうと思ってもお許しいただけませんし集金が残っておる所に集金にやらせて頂こうと思うてもその集金に行く事も許されませんでした。
 もうただ動かれないじっとしておくといった信心修行。そこからこう今度は他所の方から、外側から私を訪ねて来る様になった。動かれんようになったから、私の働きの場というものが非常に狭められたわけです。これは昨日親教会の御大祭で御祭りの後に、まぁ前講というか御挨拶を星野の先生がしておられました。ある記念祭で親先生のお話しの中の事をまぁ印象に残ったと、その話しをしておられました。それは佐賀教会の有名な総代さんがおられます。
 元陸軍中将かなんかまでかなられた人なんです。御大祭半ばに電話が掛かって来た、電話が掛かって来たけれども今日は大切な年に一回の春の大祭、秋の大祭一回しかありません、に例えどうゆうような人が私に面会にと来ても御大祭の席を外してはならない。と大祭を芯にして考える所からそれを断られた、ところがまた掛かって来た。それは佐賀の県知事からだった。実は時の総理大臣ですかね、岸信介さんでしたか、からの是非時間を抑えてちょっとの時間でもよいからというて願われた。
 そこで今まで断り続けておったけれどもそんな訳にもいかんので親先生御次ぎを頂いて行かれたという御話しでございました。総代ともなるとやはりそこに責任を感じるし御大祭という物をその様に重きをおいての事である。こと神様という事にはこりゃ私の流儀ですけれども一にも神様二にも神様三に神様と、そこの所を平田さんは一に神様二に公三に私的な事私の事というふうに言っておられましたですね。
 私的な事公の事しかし神様の前では全部なくなる。もう一にも神様二にも神様三にも神様、信心は私の命ですというもう一つ向こうに信心は私の命以上ですという所にそういう事になるのじゃないでしょうかね。一にも神様二にも神様三にも神様、ですからそこに人情というものがさらさら使われない、言うならば神情の世界である。人情の世界に生きる、神情の世界に生きる、大変な違いなんです。
 昨日でした、福岡の高橋さんが、御届けをされました。家内が御夢を頂かれた、あちらは奥さんがいろいろ、御神夢や御心眼を頂かれます、それに今度の御本部の、報徳祭を頂かれるのに、夫婦で御参拝されるように、申し込んでおられる、ところが神様からお知らせを頂いておられるのに、これからの御本部参拝は、必ず夫婦でともう決めておけ、と頂いておられる。
 都合のよかときは家内も連れて行こう、なんか都合のある時には自分一人という事は絶対ですよね皆さんご承知の様に、高橋さんがならこの御本部参拝の時一遍でも欠けられたことがない、たまにはお母さんやお店の方達まで連れていかれる、今までは御本部参拝一人絶対のものだとしておった。ところが今度家内と一緒にお参りする事を申し込んであったが、これは奥さんにも都合がついたからであろう。
 けれどもこれからは夫婦で御本部参拝の時には夫婦で参ると決めておけとまあ言うならば厳しい言葉でそう言う事を頂いておられる。私のいうならば御心眼頂いた亀が荒縄でくくられておった、これだけでも不自由。その縄が切られたやれやれこれで楽になると思うたら四本の足がぶつぶつ切られてしまって身動きも出来なくなってしまった、もう神様一本神様一途、もう商売もなければ家業もない、もう神様の前に座って御祈念をする以外にない、又は人が頼んで来た人に対して信心の話しでもするより他にはない。
 そういう厳しい意味においていうなら範囲が狭められた。佐賀の総代さんの今のお話しというてもそうです、こと自分の教会の御大祭と言う事を人が何と言うても、今一歩もお広前から離れる事は出来ない、そういう一つの信行、信心の信条と言った様な物がきちっと出来るここでは信心の節度と言う事を非常に私はやかましく申します。きちっとしたおかげが頂きたいならきちっとした信心をせよと申します。
 お日参をすると決めたらも絶対だよと大祓信行、日に十巻なら十巻の大祓信行を、させて貰うと決めたらもう今日は、八巻でまけといて下さいと、言う様な事があっちゃならん、もうこれは絶対なんだ私は昔からこの信心の上にだけは節度を持ちました。まだ信心の有り難いと言う事は分からんけれどもまぁ子供の時からの信心ですから、例えば北京にまいりましてで、もあちらの酒屋ですから飲む事が多いです。
 もうぐでんぐでんになって帰って来ておっても家内がその時分来ておりましたからもううちの父ちゃんだけには感心する、と何を感心するかといいますと、もうどげんぐでんぐでんに飲んで来とっても御神前でちゃんと御祈念する、天津祝詞と大祓いだけはあげる、そしてまぁちょっと眠っておるような事があるけれども、これだけはもう絶対、今日は体が疲れておるから、今日は飲んできとるけん御無礼する事がなかったです。
 もうこれには家内の母がもう本当に他には感心する事はなかばってんこれだけは感心する、と言よったです。だからその信心の節度というのがその事だけではない、すべての事にきちっとした信心が出来るようになるからきちっとしたおかげが頂ける。合楽ぐらい私はきちっとしたおかげを頂いとる所はなかろうと思うです。それはやはり私がいうなら信心の節度を大事にするからだとこう思うです。
 こうと決めたらその事だけはやりぬくと言う事、それがいうならば小さい所から、段々それが広うなってくる大きくなってくる、いうならば一反の田んぼから二反になり二反の田んぼから三反になると言う様に、その事一事だけじゃないすべての事に実意丁寧神信心が段々出来る様になって、それが大きく広がってゆくのである。高橋さんじゃないですけれどもこれからの御本部参拝は先生だけは絶対という小さい、まぁいうなら小さい範囲であったのがこれからはどんな事があっても家内同伴で御参り致します。
 高橋さんの所のすぐ近所に、甘木の有名なご信者さんがおられます。家具屋さんこの方は必ず御本部へ二回の月参り、もうそれがもう当り前の事になっておる、甘木のお日参は絶対のもの、それでいてあれだけの繁盛のおかげを頂いておる、だから参ったり参らじゃたり例えと言った様な事じゃなくてです、信心のそういう一つの自分の信心の範囲というものが本当の意味で広がっていく。
 今日は皆さん的確に肥やしをするいうならば範囲の所へです、皆さんが一反なら一反の田んぼを持っとるならその一反の所に、その所に肥やしをしなければならない。いきなりどこにでも振りまいちゃつまらん。そこでまず皆さんの信心をまず問うてみなくてはならない、私の信心はどの程度であろうか、朝参りには絶対、お月次祭には絶対、お月次祭のはもう家族そろうて必ず御参りをさせてもらう、大祓信行だけはまだ欠かした事はないそれがあなたの信心のいうならば範囲である。
 とかく信心は地をこやせ、だから問題はあなたの信心に肥やさなければいかんのです、だからあなたの信心は、と問われた時に私はかく確心し、かく勤めております、かくこれだけはと心に決めております、それがあなたの信心だと。今日はいうならばどこに肥やすかと、まず自分の信心の程度を知り、いうなら範囲を知る、そしてこれを広げていこうと思うならば、月に一遍であった人は二編にする、二編であった人はやっぱり月何編にする、月次祭だけはとする。
 月次祭だけと言いよった人はお日参りする、いや同じお日参りでも朝の御祈念にお参りする、こと教会の事というたら一にも神様二にも神様三にも神様という生き方を若し、信条とするならば、なににおいても教会の事に打込ませてもらう。これは私の信心の信条だと、いわゆる私の信心の信条だという所にです、高橋さんが御本部参拝はもうこれは絶対、けれどもたまには家内も連れていくといいよったのが、これからは家内も同道で絶対なものにしていけよと。
 神様がその信心の範囲を広げて下さろうとする、神様の働きをそこに感じます。そこに打込んでいくのです、本当のものにしていくんです、勿論信心はいうならば根を肥やせ、と仰せられるのですから、信心の根というものはどこか、なんといっても自分の根は心です、いうなら心を豊かに肥やす事に精進します。家の根はなんといっても先祖です、自分の根。いよいよ心を豊かにする。私共の今日あるのは先祖のおかげです。目には見えないけれども根です。
 四神様のお言葉にありますように、目に見える所ばかりを大切にして、目にみえない所を疎かにしていますと、信心とはその目にみえない所を大切にする、目にみえない所にいうなら肥料を施していく。本当に御先祖の霊様、帰幽日にお祭りでもして霊様のお慰みをするというだけではなくて、勿論式年祭は尚更な事ですけどもね、月の命日に必ずお祭りというか玉串の一本もあげさせてもろうて、霊様へお好きなものをお供えでもさせてもろうて、必ずする人が合楽に段々増えてきました。
 目に見えない所を大切にする。先日から頂くように目に見えない所を大事にする人に神様は、感じなさるというのですからね。それを信心しておっても、口には真を語っておっても目に見える所だけを大切にして、目に見ない所を疎かにするそれでは家の根も肥えません。または自分の心も肥えません。いよいよ成り行きを大事にする、どんないやな事であっても合掌して受けていくというそういう生き方が、もういよいよ自分の心を嫌が上にも肥やして行く事になりましょうけれども。
 そういう肥やすすべというものを、皆さんが合楽ではここで得ておられる。成り行きを大事にする、すべての事に御の字をつけて頂く、そして頂にくい所でも頂く、どんなに汚いものであっても、それが肥料になるとみたらそれを受けさけて頂く、という生き方を身に付けていく。だけどもそれではね、肥やしになりよろうけれども、なんとはなしにあまりにも範囲が広うて漠然としていると言う事なんだ。その修行がです、的確に地が肥えるというのは、自分の信心の範囲というものを知ることだ。
 自分は一反、自分は五反、自分は一町の広さに自分の信心を広めていく事だ、高めていく事だ、しかも節度を持った絶対のものなんだ。御本部参拝がある、今度は丁度日曜日にあたるけんお参りしようかと、金銭のお繰り合せを頂いて、今度はお参りさせて頂こうか、といったものではなくて、あろうがなかろうがもう絶対なものだと、そこから生まれてくるものは確信です。
 私共は月参りを親教会の親先生が御参りになる時は、もうそれこそ旅費がなかっても御参りをする事に決めておった。それは、不思議な不思議な働きを受けてお参りが出来た。そこにいうなら私が頂くものは何かというと、はぁ御本部参拝に、これだけ一生懸命になれば神様はこういうお繰り合わせを下さるんだな、という神様を信じる力というものはいよいよ強くなっていく。
 皆さんが一にも神様二にも神様、お参りしようと思いよったら人が来た、「すみません今日は合楽の月次祭ですから、用件はまた明日私の方から出て行きますから」、というてほっといてから、出て来る様な生き方なんです。だから教会の行事に触る様な事がぜんぜんなくなってくるわけです、一にも神様二にも神様ですから。そこにねはぁ神様はこんなにも細かいところまで、こんなにもおかげを下さる。いうならば一心とはそう言う事だとおもうです。
 こげん忙しい事は神様も御承知だから、丁度お参りしようと思いよったら人が来た、というのは神様も御承知だからという割り切ったら、おかげも割り切ったものであります。芯を貫くと言う事はね、だからあれもこれもとはせんでも、せめてこの事だけは芯を貫くというものがなからんといかんです。しかもそれが出来て神様を信じる力が強うなってきたらまた次の信心に、いうなら一反から二反、二反から三反と増やしていく、精進をしていかなければいけないです。
 私は今日の御理解を頂いて、はぁ成程ただ地を肥やせといわれるのが、ただ目に見えない所の自分の心を、心を肥やすと言う事も、または家の根を肥やすと言う事も。けれどもまず自分の信心の確立が出来ての根肥やしでなからなければ、散漫な肥やしのやり方になっておる事に、今日は気付かせて頂ました。今日はここの所が初めての御理解です、ただもう黙ってうけていきゃええ、ただ一切の事に御の字をつけていきゃええ、そして信心の方はおろそかにして月に一遍か二編しか参らん。
 それではおかげにならん、いわゆるいきなり肥料を施しておるようなものだと。自分の信心というものがここにきちっと絶対のものが出来て、そこに肥やしを入れていく様な事になるから、それこそそこからひとりでに、しかもきちっとした言うならば、節度のあるおかげが頂ける様になるのです。一遍に一足飛びという事は出来ません、けれども一足ずつでも神様に近ずいて行く事の為に私共の信心の節度の範囲というものを、段々広げていかなければなりません。
 そしてそれが全てが、一にも神様二にも神様、三にも神様と言う様な生き方が出来るようになると言う事が、目的でなからねばならん、目指しでなからなければいけない。私は今日この頃から頂いた、自分に本当に思い当たることばっかりです。私の三十年なら三十年の、こうしてお取次ぎをさせて頂くようになってからの信心がです。ははぁなるほど自分の信心がこう言う風に、まぁこれは言葉でいうと自分をいよいよ窮屈な所に置いていくと言う事にもにもなりますよね。
 例えば私がこの畳半畳からもうでませんと、こう決めたら出ないというのですから。それを絶対の節度に守るとすると、本当に畳半畳の窮屈な所に入ってしまった事になるですけれども、その畳半畳の中に世界は和賀心にあるという心が生まれてくるから不思議なんです。範囲が広うなったわけです。もう御日参りは絶対と決めたらある意味でそれだけの時間は皆さんから窮屈になる訳です。都合のよか時だけ参るなら楽ですけれどもね、それを一つの節度を持って。
 なら皆さんが自分の信心を窮屈な所へ窮屈な所へ持っていかれる事は、それに反比例しておかげの世界は広がっていきよると言う事になるのです。これは信心もあらゆる意味でね、そうでしょ、御供えを百円しよったとを二百円にするなら窮屈になるでしょ。けれども二百円だけのおかげの場は広がった事になるです、いうなら千円にするなら千円にいうならば広がる訳です。だから御初穂なんかでも御初穂は決めるなとおっしゃる。そして同時に細めるなと仰る。それはどう言う事かというと。
 御初穂を決めたり細めたりせんなら前の方へ前進していくしかないでしょ、それはあなたのおかげの場というものが広くなっていくという事なんです。なら金銭のことだけじゃなく御用なら御用の事でもそうです。もう十三日会の時だけは、朝からいうならばもう一心一家で、なら十三日会に打込むと決めたらそれだけお宅の家業を窮屈にする事になります。けれどもそれは反対におかげの場が広くなったという事になるのです。それをしかも節度を持ってというのです。
 今日は私は本当に根を肥やせ、根を肥やせと兎角信心は根を肥やせといわれてあるけれどもその肥やしの場という所、どこに肥やしをしておるかと言う所を、いうならばふんまえて、そして成行きを大事にすると、やはり全てを御事柄として受けてゆくという生き方、それが自分の信心のいうならばその程度程度に応じて、一反なら一反の、五反なら五反のところへその肥料が間違いなく施される事になる、もうこう言う事になってくる時にもう間違いなく、ひとりでにものが出来る様なおかげが約束されるとおもうですね。
   どうぞ。